こんにちは、ふくまるです!
先日、私の部屋の物置の整理をしたのですが、そこから色々懐かしいものが出てきました。
幼稚園の頃に描いた絵。幼い頃大切にしていたプリキュアのグッズ。小学校の頃学校で作った作品。とても大切にしていたぬいぐるみ。
懐かしいなあ、と思いながら物置の中のものをどんどん出していくと、ボロボロの一冊の本が出てきました。
なんだろうと思って開いてみると、
『20さいのわたしへ』
というタイトルが。
今まさに私は20歳ですので、それは小学生の私が今の私に向けて書いたもののようでした。
ドキドキしながら慎重に次のページをめくってみました。
『20さいのわたしは、じっけん をしていますか。
わたしは、ぜったいに だいがくに はいりたいです。
たくさん じっけんでしっぱいを しているとおもいますが、
がんばって ください。』
ひらがなばっかりの拙い文章の上には、それまた未熟なイラストが描かれていました。
女の子が、煙が出ている試験管を持って困っているイラストです。
私はそれを見て、「下手だなあ」とクスッと笑いました。
昔の私は、どうやら理系の大学に行って実験をすることが20歳のビジョンだったのかもしれません。
本当に理系の大学で実験がしたかったのかは謎です。家族が理系大学出身ということもあり、私が幼い頃はよくいろんな理系の大学の学園祭に連れて行かれたものですから、将来のビジョンがそれくらいしか見えなかったのだと思います。
それでも私は、もし当時の自分に会うとしたら、誇りを持って今やっていることを言えるのだろうか、と疑問を持ち始めました。
その時に記憶に蘇ってきたのは、過去に進路に迷った経験です。
理系の大学を目指していた時に感じていた、家族や学校の先生たちからのプレッシャー。
理系の大学に行ってやりたいことがなく、ただ闇雲に勉強を頑張る辛さ。
成績だけは上がっていくけど、その度に増える、クラスメイトたちからの陰湿な嫌がらせ。
結局、逃げるようにして高校を転校し、美術大学に行くことを選択しました。
そのことを昔の私が知ったら、悲しむのかな。
20歳の私に対して、みっともないと思うのかな。
と、考えました。
「でも、たとえ逃げるようにして選択した道だったとしても、私は私の好きなことを思いっきり追求できて、とっても楽しかった。」と私は意地になって思いました。
そのとき、ハッとしました。
私は今まで自分が選択した道に対してちょっとした「後悔」と「恥ずかしさ」を持っていたんだと自覚したのです。
普通の大学に行って、良い会社に就職して‥といった、いわゆる「社会のレール」から外れてしまったことに、少しの恐怖と、家族に対する申し訳なさを感じていました。
家族は私が楽しければそれでいいと言ってくれている。周りの人たちの大半も、別に私の経歴が変わっているからといって避けたりはしない。
こんなにも優しい人たちに囲まれているのに、どうも生きづらさを感じていたのは、自分で過去の自分を許すことができていなかったからなのだと気づきました。
たとえ逃げるように選択した道だったとしても、たくさん悩んでたくさん考えた上での決断だから、それは決して「甘え」ではない。
私はただただ悩んで、落ち込んで、今の道を選択したただの人。
別に誰かより劣っている訳でも、誰かより悪い人な訳でもなく、今までの経験を積み重ねてきた、ただの人。
だから、幸せになって良いんだ。自分を責める必要は全くない。
そう自分に許可が出せてからは、なんだかこの前までの無気力感が嘘だったように消え、自分が幸せになるような努力ができています。
今まで全くやってこなかった料理を家族のために作るようになったり、前からずっとやろうと思っていた運動も、毎日できるようになりました。
過去に辛い経験があると、それを思い出してしまってしんどくなる時がありますよね。
きっとそれは、過去の自分が今の自分に、辛かったんだということを認めてほしいのだと思います。
ですので、思い出してしまったときは、「自分なんか」と責めずに、「辛かったね、よく頑張ったね」と過去の自分を認めた上で、自分に対して幸せになる許可を出してみると、今よりももっと幸せになれるかもしれません。
私たち人間は、幸せになるために生まれてきたので、せっかくなら過去の自分に「今はこんなことが幸せなんだよ」と語れる人生を送りたいものですね。
最後までお読みいただきありがとうございました!
ふくまる